株式会社Global Career Incubator 代表取締役CEO 井川真一
最終更新:2026年10月29日。本文・参考資料は更新日時点の情報です。

重要な社員の退職が続くと、次に辞めそうな人へ、早く条件を出さなければという焦りが生まれます。顧客を知る人が抜け、残った社員に引き継ぎが重なり、現地責任者も採用と日々の運営に追われる。経営者にとって、理由の整理に時間を使う余裕がないと感じる局面でしょう。
それでも、昇給額と役職名だけを先に決めてしまうのは危険です。本人が問題にしているのが報酬なのか、責任に見合う権限なのか、任された仕事の評価なのか、次に進める役割なのかによって、会社が変える条件は異なります。報酬の見直しが必要なら、他の論点を理由に後回しにしてよいわけでもありません。
経営者と人事には、現地責任者の説明に、本人の言葉と実際の業務記録を重ねて確認することを勧めます。そのうえで、会社が変えられること、まだ決められないこと、実現できないことを本人へ返しましょう。残るかどうかを決めるのは本人ですが、判断できる条件を示す責任は会社にあります。
現地責任者の説明と、本人が伝えた理由を混ぜない
現地責任者が「競合の給与が高いからです」と説明していても、その根拠が退職者の発言なのか、採用市場の情報なのか、責任者自身の推測なのかで扱いは変わります。「給与を理由に挙げた人がいた」ことから、「今いる重要社員も給与が主因だ」とは言えません。国籍や地域の特徴で、この間を埋めないでください。
本社の人事担当は、退職面談の記録、在籍者からの相談、責任者の所見を分け、誰がいつ何を述べたかを残しましょう。記録のない部分を、もっともらしい理由で補う必要はありません。退職者本人に確認できない場合も、その人の理由は未確認のまま、在籍者の仕事に同じ負担がないかを調べることはできます。
英国の雇用実務機関Acasも、退職時の対話や退職面談で得た情報を、職務の明確化や今後の人材保持に生かす考え方を示しています。ただし、得られるのは本人がその場で伝えた説明です。それを唯一の原因や、他の社員の意向へ広げずに使うことが重要です。
本人と話す際には、最初から四つの選択肢で回答を迫らず、続けるうえで困っていること、今後望んでいる仕事を本人の順序で聞きましょう。業務量、上司との関係、社外の機会など、会社が想定していない話が出ることもあります。報酬・権限・評価・将来役割は、聞き漏らしを確認する視点として使ってください。
直属上司の同席が話しにくさにつながるなら、人事との個別面談など別の経路を用意しましょう。CIPDの社員の意見表明に関する資料では、複数の経路を設けること、管理職が聞いた意見に対応することの必要性が説明されています。発言がないことを、不満がない証拠にはできません。
面談を担う人事は、記録を誰に何のために共有するかを先に伝え、本人と範囲を確かめてください。少人数の拠点で、完全に匿名にできると約束するのは避けましょう。話したくない私生活や転職先の詳細まで、保持施策を検討する条件にする必要はありません。本人が言っていない「本当の理由」を会社が作らないための面談です。
本人の希望を、会社が答えられる条件へ置き直す
「本人を大切にしている」という気持ちだけでは、働き続けられる条件は整いません。顧客対応を任せていても、判断を本社が止め、成果は本人の責任とし、増えた仕事は評価に入れない。この組み合わせがあるなら、経営者が先に直すべき部分があります。
人事が面談へ持っていくのは、魅力的な条件の一覧だけではありません。本人が伝えたことに、会社が何を変えられるかを対応させた回答です。報酬・権限・評価・将来役割の四つを見ながら、確認済みの条件、まだ決まらないこと、その判断者と回答日を整理しましょう。本人に確かめていない意向は、会社が埋めずに残してください。
例えば「任されたのに決められない」という声があれば、どの判断を誰が止めているかを記録から確かめてください。本人の説明と会社の記録が食い違うところは、その違いを本人に聞き、会社が変える仕事へつなげましょう。
報酬では、本人が比較しているのが基本給、賞与を含む総額、追加した責任への処遇のどれかを確認してください。市場との比較をするなら、職務、責任、勤務地、比較時点を合わせる必要があります。金額の差が未確認でも、本人が報酬を重視しているという申告は、そのまま受け止めましょう。
権限では、肩書よりも実際の判断場面を確認しましょう。顧客間の優先順位を変えられるのか、人を割り当てられるのか。本社に権限を残す必要があるなら、本社が判断を引き受ける条件を整えてください。何でも現地に任せることが解決とは限りません。
評価では、本人が追加で担った仕事と、目標・評価資料の対応を確認しましょう。育成や他部署との調整を頼んだのに、個人の処理件数だけで評価していないか。追加の仕事があることと、高評価を自動的に付けることは別です。何を期待し、どの事実で貢献を判断するかを説明できる状態が必要です。
将来役割では、「昇進させればよい」で止めず、本人が増やしたい仕事と減らしたい仕事を確認してください。専門性を深めたい人に、部下管理を増やす役職を提示しても、希望と合うとは限りません。会社が用意できる仕事、必要な経験、まだ確定していない配置を分けて返しましょう。
仮想例へ進む前に、いま自社で検討している在籍者への保持案を一つ選び、なぜそれで本人が働き続けやすくなると考えるのかを、一、二文で残してください。昇給、役割変更、仕事の条件の修正など、実際に検討している案のままで構いません。後で、本人が述べたこと、責任者の見立て、業務記録、本社の回答を分けたうえで、同じ案へ戻ります。
8%の昇給と役職を提示する前に
以下はGCIが作成した仮想例です。
この拠点では半年間に重要社員が2人退職しました。退職面談の記録では、1人は報酬への不満を挙げ、もう1人は専門性を深められる仕事を望んでいました。現在、人事に相談しているのは、顧客案件の技術判断と後輩指導を担う社員Mです。Mは今後の働き方を迷っていますが、退職を決めたとは述べていません。
この会社では、現地責任者が日々の業務を割り振り、本社事業責任者が顧客間の優先順位と役割変更を決めます。報酬と評価ルールの変更は、本社人事責任者の承認事項です。次の仕事の割り振りを決める前に、5営業日後にMと人事が話す予定があります。
現地責任者の案は、基本給月額の8%引き上げと、部下の業務管理を担うチームリーダーへの昇格です。いずれも未承認で、8%は市場相場から算出した数字ではありません。人事がM本人に聞き、本人と共有範囲を確認したメモと、業務記録を照合すると、次の状態でした。
| 論点 | 本人が述べたこと・未確認のこと | 仕事と会社の記録 | 会社が答える条件 |
|---|---|---|---|
| 報酬 | 給与水準は気になる。他社条件の詳細や、残ると判断できる金額は未確認 | 現地責任者が8%の基本給増を提案。承認はない | 人事責任者が職務・処遇の比較根拠と変更可能額を確認し、決められる範囲と回答日を示す |
| 権限 | 顧客対応を調整する責任があっても、優先順位を決められない | Mの裁量は割り当て済みの仕事の進め方まで。本社への優先順位の照会2件は、4営業日後も未回答 | 本社事業責任者が2件を判断し、次の仕事で誰がどこまで決めるかを具体化する |
| 評価 | 後輩指導と調整を担っているのに、どう評価されるか分からない | 6週間前に本社が後輩2人の指導と案件調整を追加。直近4週間の記録は計24時間。個人目標は据え置きで、評価資料は本人の導入完了件数と問い合わせ処理時間のみ | 本社事業責任者と人事責任者が、追加業務への期待、個人目標との両立、評価の扱いを回答する |
| 将来役割 | 技術の専門性を深めたい。部下を管理する役割を望むとは述べていない | 昇格は現地責任者の提案。専門職としての次の配置や、仕事を引き取れる人の余力は未確認 | 本社事業責任者が実際に用意できる仕事を確かめ、本人の希望と照合する |
この記録から先に直せるのは、本社の未回答と、追加業務に追いついていない仕事量・評価の条件です。Mが残るかどうかの判断は本人に残し、会社は自ら止めている仕事への回答を急ぎましょう。
人事担当から経営者への保持案:改善前
半年で2人辞めており、Mも給与と将来を不安に感じています。基本給を8%上げ、チームリーダーに昇格させれば残ってもらえると考えます。本社は早く承認し、提示後のフォローは現地責任者に任せてください。
現地を支えたい意図は理解できます。しかし、2人の退職理由をMへまとめて当てはめ、本人の希望を確認していない管理職の役割を解決策にしています。8%の根拠も、本社の未回答2件や評価の扱いも残ったままです。これでは、条件を提示した会社と、仕事を続けるMとで、何が変わるのかの理解が揃いません。
人事が本社へ求める判断をそろえる
Mは給与水準を気にしていますが、8%の昇給で残るとは確認できていません。人事責任者には、実際の職務と処遇を照合し、5営業日後の面談までに変更できる条件、または未決の理由と回答日を示すことを求めます。
同時に、本社事業責任者は未回答の優先順位2件を、面談日まで待たずに判断してください。顧客側の必要時点を確かめ、間に合わない場合は現地責任者と対応を決める必要があります。次の割り振りでは、後輩指導・調整を続けるなら個人業務をどう調整するか、その余力がないなら追加役割をどこまで見直すかを決めてください。
人事責任者は、直近4週間に記録された24時間の仕事を、事業責任者と確認してください。評価資料にない仕事をどう扱うかを決め、Mへ説明する必要があります。チームリーダーへの昇格はいったん保留し、専門性を深めたい希望に対して会社が用意できる仕事を確かめます。5営業日後には、人事がこの回答をMへ返し、本人がどう受け止めるかを伺います。
昇給の検討と、本社がすぐ返すべき判断は並行して進められます。人事は報酬の比較根拠を確認し、本社事業責任者は既に届いている優先順位の依頼へ回答してください。本人への条件提示を急ぐときほど、会社が止めている仕事も一緒に動かすことが重要です。
また、記録の24時間を「他の人に移せばよい」で片付けないでください。引き受ける人の余力は未確認です。Mの負荷を減らすつもりで別の社員へ無理を移せば、拠点の仕事の条件は改善しません。本社事業責任者が、残す仕事、減らす仕事、対応時期を変える仕事まで判断する必要があります。
M本人には、未決事項も含めて返す
面談前にMへ連絡するなら、会社が判断中の条件と、次に回答することを分けて伝えましょう。
技術の専門性を深めたいこと、後輩指導や調整の評価が分からないことを、会社の課題として受け止めています。8%の昇給とチームリーダーへの昇格は、まだ承認されていません。
5営業日後の面談で、会社が決められた条件と、未決のものは理由・判断者・回答予定日をお伝えします。本社で止まっている優先順位2件は、その面談を待たずに事業責任者へ判断を求めます。追加した仕事をどう評価し、個人業務をどう調整するかも確認します。
会社からの説明を聞いたうえで、何が変わり、何がまだ難しいかを一緒に確かめさせてください。
人事は、ここで引き受けた回答を出せるよう、本社人事責任者と事業責任者に判断事項と期限を確認してください。面談では、承認された条件、まだ決まらない条件、用意できない条件を分けて説明します。Mが何を重視して次を選ぶかを聞き、会社の提案と食い違う点はその場で確かめましょう。
保持策は、本人の優先順位と会社の実行条件で変わる
同じ給与への不満でも、職務に見合う処遇の差が確認され、本人も報酬を主要な判断材料としているなら、報酬変更を優先する理由があります。経営者は人事に、同じ役割を担う社員との説明可能性、継続して負担できる費用、適用時期を含めて案を求めましょう。昇給を検討するために、本人から先に残留の約束を取り付ける必要はありません。
一方、給与への関心はあっても、実際に止まっているのが本社判断なら、昇給だけで仕事は進みません。Mのケースでは、優先順位2件の回答と、追加役割に見合う仕事量・評価の整理を並行して進める判断になります。本人にもっと主体性を求める前に、会社が判断を止めていないかを確認してください。
将来役割については、本人が専門職を望み、会社には管理職の仕事しか用意できない場合もあります。そのときは、希望に近い仕事がいつかできると曖昧に引き留めず、現在用意できる範囲を説明しましょう。反対に、本人が部下育成や管理を望み、会社にも必要な役割と支援余力があると確認できれば、役割変更が選択肢になります。
希望をすべてかなえられなくても、回答を返すことはできます。経営者が守るべきなのは、実現の裏付けがない約束で本人の判断を先延ばしにしないことです。退職の意思が固まっている人には、その選択を尊重し、話せる範囲で得た情報を引き継ぎと職場の改善へ生かしていきましょう。
個人への条件提示だけで終わらせないことも重要です。Mと同様の追加業務を他の社員も担っているなら、人事はその役割と評価を確認してください。誰かが退職を示唆したかどうかだけで処遇を変えるのではなく、会社が何を基準に見直したかを説明できる形に整えましょう。個人の希望と、職場全体で直すべき条件は分けて扱えます。
条件を変えた後、仕事と本人の受け止めを確かめる
保持案への本人の返答と、会社が約束した仕事の実施を、別々に確かめましょう。この案を実行するなら、人事は次の確認日も本人との面談で合意してください。仕事の割り振りや評価の説明など、変化を確かめられる場面に合わせ、次の項目を見ていきます。
| 確かめる対象 | 誰が、いつ、何を見るか | 結果に応じて変えること |
|---|---|---|
| 本社が約束した対応 | 人事が回答期限に、報酬判断、優先順位2件への返答、目標・評価の扱いを確認 | 未決なら理由と判断者・次の回答日を本人へ返す。会社の未実施を本人の意欲の問題にしない |
| 仕事の条件の変化 | 現地責任者が次の割り振り後の業務記録で、指導・調整と個人業務の重なり、本社判断待ちを確認 | 改善していなければ事業責任者が分担や優先順位を再調整。別の社員への負荷の移転も見る |
| 評価の説明 | 人事責任者が目標・評価の扱いを伝える際に、どの仕事をどの事実で評価するか本人と確認 | 文面だけ変えて実際の評価に反映されないなら、評価者の運用を直す |
| 本人の受け止めと今後の意向 | 新しい仕事の条件を経験した後、本人と合意した時点で人事が直接確認 | 変わった点、なお困る点、希望の変化を分けて聞き、追加対応か現状維持かを検討する |
条件が実際に変わっても、本人が社外の機会を選ぶことはあります。それだけで会社の対応がすべて無意味だったとは言えません。逆に、在籍が続いても、負担が残ったままなら対応は終わっていません。離職が続く拠点では、退職者数だけで施策を判定せず、何を約束し、何が実施され、残る社員の仕事がどう変わったかを残していくことが重要です。
次の面談には、会社の回答を持っていく
例を見る前に残した保持案へ、経営者と人事で戻ってください。その理由を「本人が述べたこと」「責任者の見立て」「業務記録で分かること」「本社が回答したこと・まだ回答していないこと」に分け、確認できた内容だけで同じ案を書き直します。初稿と並べ、昇給や役職を置いた理由のどこが残り、どこを仕事・評価・権限の回答へ変える必要が出たかを確かめてください。区別できない箇所があれば、それが次に確かめる場所です。
そのうえで、本人へ返す一文を書き、人事責任者と事業責任者に読み合わせてもらいましょう。承認された条件は、適用する時期と担当まで伝えます。未決の条件には、判断者と回答日を添えてください。本人が「自分の仕事はどう変わるのか」と尋ねたとき、役職名以外で答えられるかを確かめることが重要です。
離職が続く中で、現地の運営を守りながら一人ずつ向き合うのは容易ではありません。それでも、本人に残ってほしいと伝えるなら、会社も何を変えるのかを具体的に返しましょう。実行できる条件を決め、その後の仕事まで確かめることから、次の対話を進めていけます。
本人への提案に、本社の対応が追いついていないとき
昇給や役職の案は出ていても、本人が担う仕事と本社の判断を照合できず、何を変えるべきか決めきれない。その段階では、個人への条件提示と組織側の課題を一緒に整理する必要があります。
株式会社Global Career Incubator〈GCI〉の経営・組織コンサルティングでは、海外子会社の実態把握、社員面談・分析、役割・権限や評価・報酬の見直し、施策の定点確認などを支援しています。法人向けお問い合わせでは、離職が続いている職務、本人から確認できていること、本社で判断が止まっていることを、分かる範囲でお聞かせください。相談時に課題と進め方を伺い、調査・分析を含む支援は対象・成果物・費用を合意したうえで進めます。
参考資料
- Acas「Responding to an employee’s resignation」:本人との対話と、退職面談を今後の職務・保持施策へ生かす考え方。
- CIPD「Employee voice」:社員の意見を聞く経路と、聴取後の対応。
両資料は一般的な対話・職場改善の考え方を参照しています。退職や条件変更に関する雇用手続きは、拠点所在国の専門家に確認してください。
